おいしい夕べの隠し味

藤田にこ『食ッキング・食っきんぐ』

この土曜日の晩、小さなホームパーティーをした。

私がこういうパーティーをやる時は大抵、「てんでばーらばら」の人たちにお声をかける。仕事もバックグラウンドも、考え方もオーラの色も、ばーらばら。私がてんでばーらばらにお友達になっていただいた方々である。よって、皆さん「はじめまして、○○です」という自己紹介から会話をスタート。
でもそのばーらばらが反発しあうことなく、見事に調和した時に、きれいなオーラの虹を見せてくれるのだ。

この晩の虹はとても美しくダイナミックだった。

こちらでは「ボクの人生で見た映画ベスト3」の発表会、あちらでは気功教室、そのすぐ横では恋する女の心中吐露、隣の部屋ではにわか二胡教室、その隣では10代にすらならない少女が二人で現代アートに挑戦、そしてこの家の中心の小さな椅子にちょこんと腰掛けて、じっとそれぞれの人生を見つめ愉しむ、天使のような赤子が一人。

てんでばーらばらの世界にちょこちょこと顔を出しつつ巡り、豪勢な世界旅行をしているような、贅沢な気分を味わわせていただいた。ホステスの立場にありながら、一番満喫していたかもしれないのは、他ならぬ私だ。

奥野信太郎氏の「中庭の食事」という随筆を遠藤周作氏が紹介されていたことがある。文章の内容よりなによりまず、その文章自体の美しさ、字面の華やかさ、字音の響きの輝き、絵画的で音楽的な文章の流れに圧倒された。

「食事」も然り、「夕べ」も然り、「文章」も然り。
「おもしろい」より「おいしい」方が断然よいに決まっている。
「おもしろい」夕べというのはむしろ簡単だ。たくさん踊った、たくさん笑い転げた、などなど、活動の量、種類が増えるほどおもしろくなる可能性も高くなる。
でも、五感が満腹になるような、一瞬一瞬を満喫できるような、「ただそこに在ること」にじっくり浸れるような、そんな「おいしい」夕べこそ、「極上の時間」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。
フードアナリストとしてレストランを訪れる時も、そしてフードアナリストとしてその一食一会を文章に表現する時も、この「おいしさ」を求める姿勢を忘れたくない。

さて、用意した食事は、過分のお褒めの言葉を頂戴し、部屋の片隅にちょこっと灯したろうそくでさえ、気づいて喜んでいただいた。こういうお心遣い、気づき、お優しさこそが、実はこういう「おいしい」夕べの隠し味だと思う。

週明けには、今度はお友達のお宅にお招きいただいている。隠し味など必要ないくらい、お料理上手のお友達だが、せめて「おいしい」時間を邪魔することのないよう、そしてその「おいしさ」を満喫できるよう、楽しんできたいと思っている。