藤田にこ『食ッキング・食っきんぐ』
95年の年末、当時住んでいたパリで、公共交通機関の大規模なストライキがあった。ストライキは数週間におよび、電車や地下鉄、バスは全て動かない為、ある者は、数時間かけて徒歩で通勤し、またある者は、親指を立ててヒッチハイクをした。慣れないローラーブレードを履いて、よろよろと歩みを進める者さえいた。
私はといえば、船で通勤していた。観光目的で使われている「バトームッシュ」などの遊覧船を、パリ市がストライキ緊急対策として、無料で運行していたのだ。普段は決して安くない遊覧船に無料で乗れるので、私はむしろこのストライキを楽しんでいるところもあった。しかし、周りの他の通勤客の顔は、皆一様に険しかった。年の瀬のクリスマス間近、ただでさえやるべきことが目白押しの中、少しの移動にさえ数時間を費やすような生活が続き、多くの人が疲労困憊の状態だった。遊覧船から眺める美しいはずのパリの景色は、彼らには、寒く冷たい世の中を象徴するように薄暗く、その町と同じような灰色の顔をして、ただ無表情に視線を下げている人ばかりであった。
遊覧船が、終点に到着した。無言で降りていく我々を笑顔で迎える、二人の青年がいた。寒空のもと、ずっと船の到着を待っていたのだろう、全身を分厚いコートやズボンが覆っているが、さらけ出された頬が左右とも真っ赤だった。
「ボンジュール、コーヒー一杯いかがですか」
そんな呼びかけについ立ち止まった人の中に私もいた。分厚いコートの背中に、大きな銀色の金属の箱を背負っている。その箱の右上から、長いホースが出ていて、そのホースの先は、青年のちょうど右胸の辺りに固定されていた。青年は、左手でズボンに固定されている紙コップの束から一つコップをより分け、右胸前に差し出した。そして、右手でホースの脇のスイッチを入れると、見事そのホースから、美味しそうな香りとともに、コーヒーが湯気をたててコップに注がれていった。
財布を出そうとした紳士に向かって、青年はニコリと笑って首を横にふり、
「けっこうです。よいクリスマスを」
とコーヒーを差し出した。紳士は、恐らくここ数週間忘れていたもの、つまりとびきりの笑顔を見せて礼を言った。
紳士に続き、老若男女が次々とコーヒーを手にして、表情を崩し、口元をほころばせ、コーヒーの残り香を漂わせながら立ち去っていった。
やがてストライキは終結し、私も遊覧船で通勤することはなくなった。けれど、冷たく乾いた喉を潤し、疲れて荒んだ人々の心に幸せを届けてくれた、あの、船着場という臨時屋外カフェに登場した「人力コーヒータンク」のことを、私はその後もよく思い出した。
「思いやり」というフレーバーは、私のパリ滞在時代の貴重なスペシャルブレンドである。