茶道精神 お茶でもてなす 岩咲ナオコ

日本フードアナリスト協会 岩咲ナオコ

「天」「地」「人」、この三者が一体となった時、銘茶は生まれるといいます。天候と土壌と人智。天候が違えば、茶樹の育った土壌が違えば、あるいは作り手が違えば一つとして同じお茶は生まれてきません。それだけお茶は自然の恵みによってもたらされた賜物なのです。この恵みをいかにしてお客様におもてなしするか。中国茶道家として歩み始めてから私は常に「3つの心得」を心がけています。「お茶と向き合う心」、「人と向き合う心」そして「調和の心」です。

「お茶と向き合う心」とは、一つに“お茶の性格を知る”ことです。どんなに同じ銘柄であっても、天候や土壌、作り手が違うだけでお茶の性格は違ってきます。まずお茶の性格を理解し、湯の温度、抽出時間や茶器等との関係性など、さまざまな角度からお茶と向き合い、そのお茶の最大限に美味しい状態を引き出します。そしてもう一つは“自分の心と向き合う”ことです。中国茶はとても繊細なため、自分の心がお茶の香りや味に表れます。力が入りすぎると味は濃く出すぎてしまうし、イライラしていると尖った味になります。逆に想いがこもっていないと水っぽくなってしまいます。心をリラックスさせ、穏やかな心の状態でお茶と向き合うと、自然の賜物は素直にその心を引き出してくれます。心のバランスとお茶との調和がとれたとき、何とも言われえぬ開放感と体の細胞ひとつひとつに一滴一滴がしみわたっていく感を覚えます。

「人と向き合う心」。もてなす“お客様の性格を知る”ことです。お客様の性格を知り、その人の好みを知ること。しっかりした味が好みなのか?または爽やかな香り、すっきりした後味が好みなのか?云々。一杯のお茶をお客様にご満足いただく。自分の得意な味をお客様にご披露するのがおもてなしではありません。お客好みのお茶をセレクトするだけでなく、決まったお茶でも最大限にお客様の好みに近づけるかが心をこめたおもてなしではないかと思います。お客様の性格や好みは雰囲気、風貌、声のトーン、表情、話の内容、生活スタイルなどから垣間見てとれますが、人を瞬時にして判断する直感力は、多くのお客様と交わり、おもてなしする経験を踏む必要があります。一杯のお茶をさしあげること、とてもシンプルな行為であるが故に、油断するとお客様への配慮がかけてしまいがちです。実に難しいことですが、おもてなしする仕事に従事する一人として人への配慮は強調しすぎてもしすぎることはあります。

「調和の心」。もてなすというのは、自然の恵みであるお茶を媒介とし、人と人の心交わる空間をつくることだと思います。心交わる空間とはすなわち、調和です。一杯のお茶から人は和み調和していきます。この調和を感じたときに人というのは自然と相手にまたは空間に心開くことができます。もてなす者を「茶人」と表現するならば、茶人はその心の調和的空間をつくることが茶人の務めだと思います。その空間が調和された時、そこではまさに「茶人」「客人」「茶」の三者が一体となっています。茶人は自然界の恵みであるお茶に禮を尽くし、客人に禮をつくし、お茶をふるまいます。客人は禮を尽くしてお茶をいただきます。この時こそお茶を介して心開き、同じ目線で空間を共有することが出来るのです。そのためには茶人は常に心を穏やかに、謙虚に、つつましい気持ちで取り組み、お茶との距離感、客人との距離感という絶妙な調和を意識することが大切だと思います。どちらが近すぎても遠すぎてもいけません。心地よい距離感、それぞれを敬う距離感。これが熟練した茶人の調和の技術だと思います。そしてこの秩序を形にあらわすのが作法であり、茶芸だと考えます(作法や茶芸があって茶をもてなすのではありません)。

合理主義を良しとして発展し続け、私たちは物質的豊かさを求めすぎました。その結果人の心までお金で買えるという人が出てくるまでになってしまいました。闘争的であって、人間相互の摩擦の耐えない時代。それでも人は誰よりも上に立ちたがります。人間とはなんと欲ばりなものか?けれども、来客があれば、まずお茶をすすめるという行為がある限り、人と人との交わりを物質で割り切るほどまだ堕落していないと信じています。

自然を敬い、人を敬い、調和の心を持つ茶道精神を伝えていく茶道家として歩んでいきたいと精進する日々であります。